<コラボ講演>専修大学長谷川教授の記事PART1をシェアします

樋口健二さん&アーサー・ビナードさん コラボトーク講演会『ニッポンの記憶の半減期』Part 1


参加されたある方が、「まばたきしなかったと思う。息はかろうじてしてたかな」とFBに書かれていたのがうなずける、あまりに濃く深い内容。イベント等に参加して少し時間が経つと、普通は心の中が落ち着いて、「まとめるとすればこんな感じかな」というのが多少は見えてくるのだけど、今回は時が経つにつれて、まかれた言葉の種がじわじわと増殖し、心の中がざわざわして、だんだん収拾がつかなくなる感覚。でもこんなイベントに参加して何も伝えないのは罪だと思うので、非力を覚悟で。前半は樋口健二さんのお話と、樋口さんと山本太郎議員のトーク。
樋口健二さんは、3.11よりかなり前、イギリスのテレビドキュメンタリーで原発労働者の問題を追う樋口さんのことを取り上げた映像(https://www.youtube.com/watch?v=92fP58sMYus)をYoutubeで見て以来、ずっと尊敬していたフォトジャーナリストですが、生でお話を聴くのは今回が初めて。(以前専修大学で連続講座をされたことがあると初めて知りました!:http://www.jps.gr.jp/wp-conte…/…/2014/08/jps_154_026-027.pdf
1960年代の四日市公害の追及に始まり、原発労働者の被ばく問題へと、当時は誰にも顧みられることのなかった問題や、人々から忘れ去られかけている問題を追いかけて、(「本当は売れたかった」と率直におっしゃりつつも)「売れない写真家」を続けて50年。亡くなった人への鎮魂の思いを込めて「闇に消される原発被ばく者」を追い伝え続けてきた。たとえば1971年に格納容器内の作業で被爆して発病し、74年に裁判を起こした岩佐さん。阪大病院で「放射性皮膚炎・二次性リンパ浮腫」という診断も受けていたが(http://www.nippyo.co.jp/downlo…/SHINSAI/…/housemi_324_p8.pdf)、17年間争った末(被告側に「御用学者」が協力)、91年に最高裁で上告棄却の判決。病床で樋口さんの手を握り、「助けてくれ、助けてくれ」と苦しみながら死んでいったという。原発の被ばく労働は昔も今も差別の構造が根底にあり、社会の底辺にいる人々が支えている(黒人労働者もいる、という樋口さんの証拠写真も)。
対談相手の山本太郎議員に、原発労働者を(病気になったとき何らかの補償が受けられるよう)全員公務員にすることはできないか、と樋口さんが提案。これに対し山本太郎氏は、既に国会の委員会でそのような提案をしたことがあるが、「みんながみんな公務員になりたいわけではないですからねえ」というようなふざけた答弁だった、という。
ここまでレポートしてきて、あの膨大で濃い内容を過不足なく伝えることは正直ほぼ無理だと痛感しつつあります…
アーサービナードさんが遅れて到着され、山本太郎議員が所用で早めに退席しなければならなかったため、入れ違いになり、3人が顔をそろえることができなかった、というハプニングはあったが、この3人の話の「濃さ」を考えると、「樋口健二×山本太郎」「樋口健二×アーサービナード」という2部構成は、「結果オーライ」だったのではないかと思う。でも主催のママデモの皆さんは、ぜひもう一度やって、3人の顔合わせを実現したいとおっしゃっていました。この3人のお話は、生で聴かないと絶対に伝わらないものがあります。実現したら皆さまもぜひ足を運んで、ご自分の耳でお聴きになってください…!

 

(facebookの専修大学長谷川教授の記事より転載)